1月10日、辺野古新基地建設をめぐり大浦湾側の埋立ての工事開始を強行しました。岸田政権の今回の暴挙は民主主義、自然、くらしを破壊するもので、断じて許すことはできません。今回のダグラス・ラミスさんの論稿はこの工事の矛盾を鋭くつきます。いくらお金、時間をつぎ込んでも完成は不可能であり、政府が使っている「工事」という言葉は間違いであり、「破壊」が正確であるという指摘は実に明快です。本稿をぜひお読みください
「工事」は明確ではない、「破壊」がはっきりしている
2024年1月11日沖縄タイムス一面で大浦湾の工事が始まった、と書いてあった。
何かが始まったのは確かだが、それは「工事」と呼んでもよろしいのだろうか?「工事」とは、形のある何かを作る、という意味だ。しかし辺野古の大浦湾ではその作れる“何か”があるのか、そして防衛局は真剣にそれを作ろうとしているか、また米軍はまだそれを作って欲しいのか、がハッキリしない。
玉城デニー県知事は承認しなかった新しい工事計画を、政府が代わりに承認したと言うが、しかしその承認を受けたと言われる「計画」が存在するのだろうか。その「計画」は、七万一千本の砂ぐいを、90メートルまで埋めることだが、問題は90メートルのドリルが存在しないことだ。「なんとかなるだろう」とは、承認すべき「計画」とは言えない。
12月23日の朝日新聞にフリーランス記者フィリップ・ブレーザーが興味深い記事を書いた。それによると、米軍は何年も前から普天間基地を辺野古へ移設する計画を諦めた。その工事はできそうもないということだけではなく、工事はもし奇跡的に成功しても、もう現在の米軍の軍事作戦に合わないからである。滑走路が短すぎる上に、辺野古基地は沖繩島の東側の低い場所にある点が戦略的に不都合であり、関西空港のように不安定な海底を程度固めることができても徐々に海に沈むだろう、などという理由で米軍は普天間基地の方が戦略的に好都合だと考えるようになったそうだ。行動は言葉より多くを語る。実際にも、米軍は普天間基地の滑走路を工事しており兵士の新しい宿舎を建築している。
だからと言って、米軍にとって辺野古新基地建設は役に立たないということではない。その作業が続いている限り、日米政府の1996年の「普天間基地を宜野湾市から無くす」という約束の答えになる。つまり「だから辺野古の建設が終わるまで待ちなさい」と民意を鎮めることができる。ブレーザー氏は、米軍は普天間基地に残りたいと考え、辺野古建設の完成を遅く、できれば完成が不可能になった方が望ましい、と言っている。
そうであるならば、辺野古の作業は「工事」という威厳のある言葉はふさわしくないだろう。穴を掘って、また埋めて、また掘って、昔の強制収容所で処罰として課された、無益、無意味な終わりのない労働に似てくる。しかしその労働によって、大浦湾が破壊されるのが間違いない。つまり、1月11日に大浦湾で何が始まった作業は「工事」ではなく「破壊」と言った方が正確だろう。あそこで真面目に働いている労働者にとって辛いだろう。
ダグラス・ラミス(当会共同代表)