今回メルマガは当会の立田卓也さんからの寄稿です。立田さんは精力的にガザ侵攻への抗議のスタンディングなどを継続されており、その際に経験したことや、日々感じていることについて書いていただきました。ぜひお読みください。
ガザ侵攻抗議から見えてきたこと
学生時代に見た80年代の米国映画~米兵らが人質救出のためアラブ人兵士を大勢殺す中で、主役級の自軍の仲間一人が死ぬ姿に涙する~、かの国の愛国心を高めるのに貢献しただろうそれへの強烈な違和感が忘れられない。これはエンタメの例だが、戦闘開始から半年経ったいわゆる「パレスチナ紛争」についての日本の主流メディアの報道は、イスラエルの主張するがままの報道姿勢だという。いわゆる「中東」情勢などと、私たちが何気なく使っているアラブ諸国の出来事を、欧米・イスラエル目線で都合よく報道(cover)することを通して、その内実や意味づけを覆い隠す(cover)「カバーリングイスラム」。私たちは真実を見られていない。
岡真理さんは2月の講演の中で映画『関心領域』を引き合いに出された。ドイツ人将校家族の平和な暮らしの隣、壁一枚向こうに、アウシュビッツ収容所があったことを描く作品。現代では、多くの人が手に持つスマホの画面の中にガザでのジェノサイド・ドミサイドが映し出されている。現地からの必死のSNS投稿や地元メディアに人々はアクセスし関心しているのか、と。
決して現在のイスラエルの肩を持つのではなく。ドイツがホロコーストへの謝罪の折、収容施設を見、生き残ったユダヤ人と出会ったという。そこでドイツ人たちが「私たちは知らなかった」と悔いる姿に、生き残ったユダヤ人は答える「いや、あなたは知っていた」。
覆いを取り除き、見たくない「ガザの現状」の中に見えるのは私たちの加害者性。隠される理由は、人権と民主主義を謳う日本を含むグローバルノースが、過去の植民地主義を反省できていないから。同じ支配者の姿をしたイスラエルを批判できずにいる。その権力者たちが私たちの国の政治を担っていることにも恐怖を覚える。
スタンディングである人の、街行く人とのやりとり。〈どこの団体?/ただの市民です/ガザとはどんな関わりが?/ありません/どうしてやっているの?/家に居ても虐殺は止まらないから/何の利害もないのに?〉また別の人は〈ガザでの虐殺をどう思う?/特に気にしていません〉
ある講演会では、講演後の質問で聴衆から「何をしたらいいですか?」と無邪気な問い。これに講師はしばらく絶句された(ように画面越しに見た)。長くこの問題に関わって発信し続けてこられた方からすれば、この質問をしてパレスチナの人たちの死を疑似体験されたと想像する。私もいま、FreeGAZAの訴えを拒む街頭で、ガザの人たちの死の、限りなく僅かな疑似体験をしている。こうして殺されていっているのかと。
無関心でいられる特権、知らんふうなの暴力が、自分たちと同じ武器を持たない住民の虐殺を許す。もしも、自分たちや自分たちの暮らす地にその暴虐が振るわれる時、また世界のどこかで誰かが言う「特に気にしていません」。
それでもSNSの他の動画からは、各国で行われている数十万人のデモを見せてくれる。若い世代が声をあげている。毎日街頭に立つ人がいる。ここ沖縄では、平和運動の先輩たちが共にデモに立ってくださることが、人間の尊厳を求める訴えであることを確信させてくれる。命の価値の普遍性~あの沖縄戦で失われた命も、今失われている命も同じ人間の命である~を、沖縄がずっと刻み続けてきてくれた。敵味方関係なく、私たちをそのような価値観へと転換せよと招いてくれている。
だから私は辺野古ゲート前で、機動隊はじめ警備員や防衛局員やトラック運転手に向かって求める。「これは共に反対しようよ」と。私たちはガザの人たちの死に何もできないという現実にぶつかりつつ。
立田卓也(当会運営委員)