メルマガ181号

今回のメルマガは当会発起人の与那覇さんからの投稿です。沖縄の戦後史を「悲しい宿命」というキーワードをもとに端的に整然と実にわかりやすくまとめていただいた約10000字の文章を寄せていただきました。この文章にこれ以上「悲しい宿命」を絶対に背負わせないという与那覇さんの島々を戦場にしない、させないという思いがこめられており、ぜひ皆さんに読んでいただきたいと思います。今回はその第1回目です。

沖縄を「悲しい宿命の島」にするのは誰か?

はじめに
  10月10日は、79年前の1944年、沖縄戦の前哨戦とされる米軍の大空襲、「10・10空襲」があった日として記憶が継承されている。前日の琉球新報「金口木口」は、芥川賞作家火野葦平が空襲半月前に沖縄に立ち寄ったことを取り上げ、4年前の「詩と情緒の国、夢の島」から「戦争前の荒々しく埃っぽい喧騒」に様変わりした那覇に驚いた彼が10・10空襲の報を「祖国の玄関へ近づいた巨大な戦影を、燃えたぎる悲痛の念で聞いた。」と書く。台湾有事で要塞化される沖縄の今と未来を過去に見る思いだ。彼は、戦前、戦後の歴史を踏まえて沖縄を「悲しい宿命の島」と表現したという。宿命とは「生まれる以前から定まっている運命」(精選版 日本語辞典)「避けることも変えることもできない運命的なもの」(Oxford languages)と定義される。火野としては同情心からの文学的表現だったと思うが、沖縄の歴史に見る苦難は、沖縄に生まれた私達の悲しい宿命なのだろうか?いや、それは他者によって作られたものであり、避けることも変えることもできない神に与えられた宿命では無い。沖縄を「悲しい宿命の島」にするのは誰か?本稿は沖縄の苦難を過去と現在に見ることによって、その問いに答える。本来なら戦前も含めるべきだが、紙幅の都合もあり戦後史から始めたい。

1.米軍占領下に見る沖縄
1-1 サンフランシスコ講和条約前
「10・10空襲」に始まる空からの攻撃、「鉄の暴風」と称された海からの艦砲射撃、地獄と形容された地上戦、沖縄戦の終了は、牛島満司令官の自決によって組織的戦闘が終了した1945年6月23日とされる。しかし、戦争終了後に続く沖縄の苦難は、日米政府から放置された「忘れられた島」として米国人に記録されている。タイム誌で沖縄を「忘れられた島」(Forgotten Islands)として書いたギブニー(Frank Gibney)の記事は研究者間でよく言及されてきたが、実はこの言葉を使用したのはギブニーが最初ではない。ギブニーより早く、ロディニュースセンチネル(Lodi News-Sentinel’s)が1947年8月11日の記事で、戦後なお復興が進まぬ沖縄の状況を「忘れられた島」として憂えている。記事は、地上戦が激しかった南部がいまだ戦場のまま放置された状況であり、かつて繁栄した那覇港は米軍占領後2年たっても瓦礫の山のままで、沖縄は明確化されない米軍の極東政策を象徴するものだと述べる。沖縄の米軍高官は記者のインタビューに答え「お偉いさん達(高級将校や高級官僚)がワシントンから東京、上海に行く途中、たまに沖縄を訪れる。彼等は、沖縄は米国にとって戦略的に重要であると賛同するものの、今までのところ、 沖縄については何もしてくれない。」と不満を漏らす。「米軍占領2年後も何も建築されない沖縄」 と銘打たれた本記事の一部を紹介する。何故沖縄が「忘れられた島」なのかを説明する。

米軍幹部は公にはしたくないようだが、明らかにこの島の法的地位と米国の長期的政策の早期明確化を渇望している。沖縄の米軍司令官達は彼等にできることをやってはいるものの、資金の不足や権限の限定があり大したことはできない。急いで回った取材旅行で記者が見たところ最も整備された場所は、戦死した米兵が埋葬された大きな5つの米軍共同墓地であった。(下線は筆者)(1)

沖縄の米軍高官の言葉には米国政府に対する苛立ちが感じられ、ロディニュースセンチネルは沖縄の混乱状況の原因の一つは、不明瞭な米国の極東政策にあるとしている。以前から沖縄の米軍幹部が共通して持っていた考えは、領土としての沖縄に対する米軍の支配権の決定は平和条約実効後になるということだった。1945年10月23日の米軍政府関係者出席のもとでの沖縄主要12地域の指導者達の会議で、沖縄北部の平良キャンプのリーダーが「沖縄の中央政府を設立しないのか?」との質問したのに対し、米軍政府高官が「しばらくの間、それはないだろう。平和条約で沖縄の政治的位置が決定した後になるだろう。我々は政府を設立することはできないが、米軍政府は存在可能だ。」と答えている。(2)
沖縄がどのような混乱のなかにあったかについては、ギブニーが以下で述べている。

過去4年間、台風に晒され続ける貧しい沖縄は、陸軍米兵が皮肉を込めて言う「兵站の最後尾」にぶら下がってきた。一部の司令官達は無力で無能だ。モラルや規律が世界のどの部隊よりも悪い15000人以上の米軍部隊が、希望の見えない貧困の中で生活する60万人の住民を支配管理してきた。シーツとキンケイドは他のモラルの危機に直面している。沖縄は他の軍隊での不適応者や問題児の廃棄場所となってきた。9月までの6ヶ月で、米兵による犯罪は殺害29件、レイプ18件、強盗16件、傷害事件33件という驚くべき数字だ。(3)

ギブニーは6ヶ月間の犯罪数に驚いているが、実態はその数字以上であったことは明らかだった。池宮城(1970)は「米兵による犯罪事件は記者達の手の届かぬところにあった。戦争が一般人民には不可抗力であったように、戦後の多くの事件も「不可抗」のものとしてとらえられた。」(4)と言う。それでも1947年205件、1948年229件の事件が記録されているが、福地(1995)も「米兵による事件は非常に多かったが、1945年から1951年まで警察は逮捕も調査もできず記録にも残らなかった。勿論、補償も無く、自動車事故で死傷しても犯罪にもならなかった。」(5)と述べる。特筆すべきは、1948年伊江島で米軍の爆薬輸送船が爆発、死者107人、負傷者70人が犠牲となった事故である。この事故では、米軍の調査によって6件ものAR55-407規則違反があり、さらに3件の規律不在、4件の監督不足があったことが指摘され、(6)事故原因が米兵の規則違反や軍指導部の指導不足、軍全体の規律のゆるみであることがわかっており、上記の沖縄が劣悪な米兵の廃棄場所となっていたことを裏付ける。
不安定であった沖縄の政治的位置は、1951年に締結されたサンフランシスコ講和条約第3条によって決定された。第3条は「日本が合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する」ことで成立しており、日米政府によって沖縄の運命が決定されたことになる。条約締結の4月28日は、日本に取ってGHQの占領から解き放された独立の日であったが、沖縄にとっては米軍占領下に置かれる「屈辱の日」となった。講話条約決定の経過においては、天皇が「講話条約締結後の日米条約のなかで琉球に於ける長期的米軍基地の権利をアメリカが獲得することを勧める」メッセージ、いわゆる天皇メッセージが果たした役割も大きい。PPS10/1は総合参謀本部(JCS)と国務省の琉球処分に関する意見の違いを解決する1つとして天皇メッセージを推している。(7)また、国務省と相対するJCSなどを支援する形で、中央情報局(CIA)が、琉球、特に沖縄はアジアにおける防衛、攻撃の作戦上有利で、中国や北朝鮮の海上進出の監視警戒の場として、また広範囲な空からの監視場所として重要だとし、ソ連や再軍備化しかねない日本など、潜在的な敵国に対する監視の場としての役割を琉球に見いだす報告書を出しており、対外情報機関が政治的決定で影響力を発揮したことがわかる。(8)その後の沖縄では、米軍のブルドーザーと銃剣による強圧的な土地接収が本格化し、住民の抵抗空しく、基地が建設されていく。

1-2.サンフランシスコ講和条約後
サンフランシスコ講和条約締結後の米軍占領下の沖縄では、米軍基地が優先される治外法権下で基本的人権も蔑ろのいわゆる植民地支配下の状況が復帰まで27年続くこととなる。1950年12月25日に設立された琉球列島米国民政府USCAR(United States Civil Administration of the Ryukyu Islands)の施政が復帰まで続いた。講話条約発効1年後の1953年に米軍占領下沖縄で生まれた筆者にとって、基地周辺の鉄条網は日常風景で、基地在るが故の事故、事件、騒音公害、環境汚染も日常問題であった。復帰前までの主な事件、事故、出来事としては以下が挙げられる。

1955年9月 :嘉手納村で由美子ちゃん(5才)が米兵により暴行・殺害・遺棄される
1957年:日本各地に駐留する米軍が各地の反基地運動で沖縄に移転され沖縄に集中
1959年6月 :那覇空港の米軍ミサイル基地から核弾頭搭載ミサイルが誤発射される
6月 :宮森小学校に米軍ジェット戦闘機墜落、死者18人、負傷者210人
12月:イノシシと間違えたとして米兵が女性を射殺・無罪となる
1960年12月:動物と間違えたとして米兵が男性を射殺
1962年10月:キューバ危機(沖縄のミサイル部隊に核攻撃命令が誤って下るも回避)
1963年2月:横断歩道を渡る中学1年男子を信号無視の米兵のトラックが轢殺・無罪
     7月:コザ市で米兵に女性が強姦・殺害される
1965年4月:宜野座村で6歳の女の子が米軍のトラックに轢殺される
1965年6月 :読谷村で小学5年女子がパラシュート投下の米軍トレーラーの下敷きになり死亡
1968年11月:B52、嘉手納基地に墜落
1968年04月:嘉手納町で地下パイプから漏れた米軍基地の燃料に井戸が汚染
1970年5月 :米兵による女子高校生死傷事件
      9月 :糸満町で飲酒運転の米兵が主婦をひき殺す。無罪判決。
      12月:コザ(現在の沖縄市)で白人の車両を焼き払う市民蜂起が発生
1971年10月:読谷村に米軍ジェット機が墜落、1人死亡
1971年1月 :基地内の毒ガスを海外基地に移送

その他、日常茶飯事に起こっていた、米兵によるタクシー強盗や運転手殺傷事件、レイプ事件などが筆者の記憶に残る。事件、事故の多さや米兵の無罪判決などにおいては、講和条約前の米軍初期占領下の混乱状態が条約締結後も続いていたと言える。それ故に発生したのが1970年のコザ市の市民蜂起だった。米兵が運転する車が住民をはねる事故が発生、抗議した市民に米軍憲兵が威嚇発砲したため、怒った群衆が軍関係者の車両80台以上を次々炎上させた。日頃の差別的統治への怒りを爆発させた突発的行為の拡散であったものの、米人に1人の死傷者も出さず、差別される側の黒人の車両には火をつけなかった。
沖縄の教員が日本への復帰運動の先頭に立ったのは、そのような基本的人権も蹂躙された社会状況下で、子供達のため何より教育を復興させたいとの強い思いがあったからだった。1952年4月沖縄教育連合会が沖縄教職員会に改組され、会長に屋良朝苗、事務局長に新里清篤、事務局次長に喜屋武真栄が就任する。主な活動は「沖縄戦災校舎復校促進」の結成と活動(1952)、沖縄子供を守る会の結成(1953)祖国復帰運動の推進(1953)、教育研究集会の開催(1955)、共済会館「八汐荘」建設(1960)などである。教職員会は「基地撤去運動や土地を守る島ぐるみ闘争など沖縄が異民族に支配されているという特殊な状況から派生する問題に対して、常に大衆運動の中核的役割を果たしてきた」と評されている。(9)3800名の教員を結集する戦後初の沖縄教職員大会は那覇国際劇場で開催され屋良会長挨拶や戦没教員や学童の霊への黙祷後、意見発表、以下の決議がなされた。

1.自主性を強化し、教権の確立を期す
1.生活権を確保する
1.教育環境の整備をはかる
1.日本復帰を促進する(10)

決議事項は当時の沖縄の社会問題を象徴するものだ。復帰運動に関しては1951年に「日本復帰促進期成会」が結成され、運動が本格的に開始された。しかしながら、最初から住民の熱意に支えられて出発した訳ではなかったことも付け加えておくべきだろう。沖縄教職員組合の委員長であった石川元平氏は「確かに米軍は酷いが、日本軍のほうがもっと酷かったと復帰運動開始時には日本復帰を支持できないという人も多かった。私は、日本は戦後は平和憲法のもとで民主的国家になっていると説得したが、反日感情はかなり強いものがあった。」 と述べている。(11)念願の復帰は1972年に実現したが、日米政府だけで決定されていった復帰内容は、「基地無き平和な島」という沖縄の人々の願いは届かず、逆に自衛隊が配備される基地強化の形となり、5月15日復帰日の土砂降りの雨は沖縄の人々の気持ちを表わすものとなった。(次回へ続く) 

与那覇恵子(当会発起人)

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