メルマガ145号

今回は慰霊の日前後に新聞に寄せられた声欄への投稿抜粋の続編です。自らの体験を通じて、日本政府がすすめようとする軍事強化に鋭い批判を加える意見が寄せられています。当会発起人の新垣邦雄さんのリード文とあわせて、ぜひお読みください。

沖縄の「声」ー慰霊の日を迎えて

沖縄戦で亡くなった戦没者の「声なき声」に私たちはどう向き合うか。前回に続いて沖縄地元2紙に掲載された県民の「声」を抜粋して紹介する。「女、子供は足手まといになるから死んでくれ」と迫った日本兵。「沖縄人は皆スパイだ」と銃口を向ける日本兵もいた。県民は沖縄戦で軍隊と戦争の本質を見た。県民は戦没者の「声なき声」に耳を傾け、県遺族会長は「今後二度と戦没者遺族を出さない」と決意を述べた。投稿者は「戦争を始めたのは誰か」と政治家の責任を問い、「戦争を認め、進める政治家、政策に反対する」と誓った。県民の声に背を向け、岸田首相は沖縄戦全戦没者追悼式の後、記者団に対し、南西諸島の防衛力強化について「国民の皆さんを保護する観点からも重要」と発言した。沖縄をミサイル要塞化する戦争準備を「国民保護のため」と言い放ったのである。首相の言う「国民」に「県民の命」が見積もられているとはもはや信じられない。首相の脳裏に、沖縄の「ミサイル戦争の図」が描かれていることすら疑わざるを得ない。「沖縄を二度と戦場にしない」と誓う戦没者遺族の県民、私たちはこの国の政治、「戦争をする国」に舵を切った岸田首相ら政治家、軍人、軍事関係者にどう向き合うか。「平和ぼけ」からの覚醒を迫られている。(新垣邦雄)

「二度と起こしてはいけない戦争」 本部町 故人=享年92  タイムス 7月3日
〈「女、子供は足手まといになるから早く死んでくれ」と日本兵にはっきり言われた。〉
日本軍は住民の畑を収奪し、民間人に耕すことを命令しながら、食料は独り占めにした。
〈畑のイモをこっそり盗み見つかった婦人はみせしめにのために木につるされ、棒で叩かれ半殺しにされました〉
〈(パラオ)島民の方々の人間性あふれる行動と比べ(日本の)軍国主義の非人間性、命令的な声が今でも聞こえ(略)〉自由に意見を言えない苦しさはたとえようがありません〉
※パラオ諸島で戦禍に巻き込まれた女性(故人)の手記から。

「家族で捕虜になった」 宜野湾市 90歳  新報 6月23日
 「お前らは皆スパイだ!」と日本兵に脅迫された話を沖縄体験者からよく聞く。捕虜になった者、捕虜になろうとしている者は銃剣で刺し殺された。または手りゅう弾で殺された。
 私たちが摩文仁の海岸の洞窟に避難していた時、日本兵に「お前ら沖縄人は皆スパイだ」「お前らが捕虜に出ていく時は後ろから手りゅう弾を投げて撃ち殺してやるから覚えておれ」と脅迫された。私たち家族はこんな敗残兵に撃ち殺されてたまるものかと思い、この兵隊が立ち去っていなくなるのを見届けてから捕虜になるようにした。(略)
 
「御霊の声聞こう」 那覇市 85歳 6月23日 新報
 (略)今年も365人が追加刻銘された。その御霊は戦後80年近くなっても山野、ガマなどで収骨されず、安らかに眠ることができずに怨嗟の声なき声を上げているようで心が痛む。声なき声は「いかなることがあっても戦争をしてはならない。為政者は日本国憲法9条を順守してほしい」と訴えているのではないか。
 現政権は9条が戦力不保持を明記しているにもかかわらず、戦力を拡大している。最も大切なことは強大な戦力ではなく、外交努力である。敵国視している中国や北朝鮮と一層の外交を重ねて仲良くすべきだ。そうすれば戦争を避けることができる。戦力に使うお金を教育や福祉に充ててほしいー。御霊はそう行っている。

「県民それぞれに沖縄戦の歴史」(論壇) 那覇市 79歳 6月23日 新報
 (略)母に戦後の写真はない。病気が治ってからと話していたが、私が小学5年の時に亡くなった。戦争の苦労さえなければ、長生きできたと思う。その意味で、母も戦争犠牲者の一人だと考えている。
 戦争は政治家が始める。戦争は絶対に駄目だ。平和憲法を順守し、平和外交に徹してほしい。主権者の一人として申し上げる。

「戦争拒否する決意の日」 豊見城市 54歳 6月23日 新報
 (略)慰霊の日とは、静かな祈りをささげると同時に、戦争につながる全ての事象を断固拒否し、恒久平和の確立とその実践を戦没者の御霊に固く誓う「決意表明の日」である。

「命のメッセージ」 那覇市 62歳  6月23日 新報
 「ほんとはね、思い出したくないの…」Mさんは目に涙をいっぱいためて私に語りだした。(略)。本紙にMさんの戦争体験談が掲載された。その内容に強烈な衝撃を受けた。
 私は「これからも体験を伝えてくださいね」と言うと、Mさんの表情から笑顔が消え、冒頭の言葉が出た。そして言葉は続いた。「若い人たちに、私たちと同じような体験は絶対にしてほしくないの。だから私たちはね、つらいけどあの悲惨な戦争体験を伝えているのよ」
 そのMさん、昨年9月安らかに旅立っていかれた。

 「戦没者遺族出さない」 県遺族連合会宮城篤正会長 6月24日 新報
 (略)私たちは、今後二度と「戦没者遺族を出さない」という強い信念をもって活動を続けていく。 (沖縄全戦没者追悼式あいさつ)

「誰が戦争を始めたのか」 うるま市 72歳 6月24日 新報
 「誰があの悲惨な戦争を始めたのか、悔やんでも悔やんでも飽き足らない。子孫末代まで伝えよう」。これは沖縄戦で親兄弟を失った男性が作った沖縄民謡「艦砲ぬ喰えー残さー」の最後の歌詞を意訳したものである。(略)
 誰が戦争を始めるのか。政治家は戦争を想定した政策の前に、戦争を防ぐために必死の努力をするべきだ。
 私たちは沖縄戦の悲劇を二度と繰り返さないために、沖縄戦の悲惨さ、残酷さを子や孫へと代々伝え、戦争を認め、進める政治家、政策に反対することが重要だ。

「悲惨さ発信願う」 うるま市 68歳 6月24日 新報
 菅義偉前首相は米軍普天間飛行場移設問題の集中協議で、故翁長雄志前知事に「私は戦後生まれなもので、沖縄の歴史はなかなか分からない」と臆面もなく発言していた。(略)
 戦後78年、過去の歴史家から学ぼうとしない政治家が増え、戦争をする国造りに向け、躍起になっている。
 きな臭い空気が充満する中で迎えた慰霊の日が、戦争の悲惨さ、愚かさを世界中の人々に発信する日になったことを願う。

「『平和ぼけ』なのか」 うるま市 64歳 6月24日 新報
(略)平和について考えねばと頭では分かっていても、なぜだか前向きに平和に向き合えない私がいる。「平和ぼけ」という言葉があるが、それなのだろうと思う。
 沖縄戦を思う時、今も戦争はあり、それによって亡くなられた人々がいる現実を知っている。でも、どうしても、それらから目を背けたくなってしまう。こんな私だが、慰霊の日には謹んで黙とうを御霊にささげた。
 
 
「戦争繰り返す愚 避けなければ」 恩納村 70歳 6月23日 タイムス
沖縄にとって「慰霊の日」は沖縄戦で犠牲となった多くの御霊を追悼する特別な日である。
小生も戦争を知らない戦後生まれであるが、そのことは学校での教育や両親をはじめ、先人たちの経験談によって教わった。戦争は憎みこそすれ、決して戦争に与する者などいるはずもない。命を奪い合う悲惨な戦争を指示する愚者がいるだろうか。
(中略)
戦争体験者でなくして、戦争への恐怖心やおぞましさは語れないかもしれない。しかし、戦争を繰り返す愚かさだけは、絶対に避けなければならないものだ。
戦争の犠牲になった御霊を鎮めるためにも、今ある平和を守ることは、今に生きる者の絶対的な責務であると思う。

「あったことがなかったことに」 那覇市 71歳 6月23日 タイムス
米軍の沖縄戦映像に、国頭村で「元気よく行進」して投降する日本兵の一段がいる。十数年前にはインターネットにも載っていた。彼らは「S中隊」とされ、北部の山中(名護・羽地)から食糧を強奪したことで知られていた。山には多数の餓死住民がいた。しかし、今はこの隊のページが探せない。日本軍による食糧強奪は「なかったこと」にされようとしている。
「島田叡 県知事らはは沖縄の住民を守った恩人ですか:」東京の知人との会話で出てきた。私は「知事のおかけで助かった。・・・うんぬんは生存者の方々(最大評価者)から一度も聞いたことがない」と返答した。10万余の住民を前にしても沖縄戦の実相を変え、住民を守った「恩人であったこと」をつくる動きが沖縄の外にある。

「南方で戦死したおじをしのぶ」 那覇市 79歳 6月23日 タイムス 
(前略)平和祈念公園は、総理大臣の警護で異様に配置される私・制服の警官。空からヘリの爆音が鳴り響く。静寂であるべき追悼式にそぐわない光景である。
ブーゲンビル島の戦死者を祀る亀甲墓の奥津城。360人余の県出身者が眠っている。父と母の弟も同島で戦死した。同島を慰問したいと計画を立てた。飛行機を何度か乗り継ぎ、最後はローカル線で到着する。慰問団ではなく個人で現地を訪ねるのは難しい。諦めきれないでいる。
 赤道に近い島は遠い。2人のおじの終焉の地を踏みたい。野や山を歩き、同じ空気に触れたい。望郷の思いでたたずんだであろう海岸に立ちたい。高齢になると20代で命を落としたおじたちへの思いが募る。(後略)

「戻らぬ息子を待つ悲痛な思い」 沖縄市 79歳 6月23日 タイムス
西原町棚原のおばあさんが、庭先で語った。「どこかに出かけている時に、早く帰らなくてはと思ったり、出かけようとし、ひょうっとしたらその間にお母さんただいまと帰ってくるのでは、と思うことがある。何時も、ということではないがね」と。戦争が終わって30年も過ぎた 1970年だいのことであった。
聞くと、長男が兵隊に取られて、行方不明でどこに行ったのかさえも知らないという。生きているのかも、死んだのかも知らない。いまだ帰ってきていないだけのこと。
沖縄戦を体験した人たちも激減し、戦争は体験から歴史の一こまになりつつある。6月のこの頃になると、棚原のおばあさんだけではなく、兵隊に取られて戻ってこない子を持つ多くの親たちが、おそらく、このおばあさんと同じ思いをしたのではないだろうか。
沖縄戦が捨て石の戦場であったように「、与那国島・石垣・宮古島と再び捨て石のための自衛隊基地が建設された。私たちは、棚原のおばあさんのような悲痛な思いを見捨てることにならないだろうか。

「命どぅ宝の教え 受け継がれる」 本部町 63歳 6月23日 タイムス
「争うより愛しなさい」。平和集会に新しい風「沖縄から世界へ」に感嘆。若い人々の活躍は、戦争の苦難を生きた人々、語り継ぐ先輩方の努力が着実に伝わっている証し。今こそ思いを新たに、平和への願いを波打つうねりとしてさらに世界の人々へ届ける。
 (中略)
ウチナーへ思いを寄せる多くの人が、若人の活躍が平和な未来を築き上げてくれると、優しい手を添えて心のバトンを渡している。戦争させぬ命どぅ宝の教えがしっかりと受け継がれていく。力を合わせれば世界平和への切なる願いがかなうと信じる。

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