メルマガ373号

今回のメルマガは8月3日に開催する「戦争PTSDを考える講演会・シンポジウム」で登壇する沖本裕司さんの論考です。お読みいただき、知人、友人をお誘いいただき、ぜひご参加下さい。※沖縄タイムス掲載の論壇を転載しております。

南京戦 消えぬ凄惨な記憶 人生に大きな苦しみ背負う

本紙連載「悲しや沖縄-戦争と心の傷」(1月1日~5月20日)を興味深く読んだ。沖縄戦を主にして日本兵のトラウマも取り上げられていた。私はここで、日本軍の侵略を受けた中国・南京の人々の戦争トラウマについて、報告したい。

日本兵の自殺

 石川達三『生きている兵隊』は、南京を攻撃した皇軍による住民殺害、略奪、性暴力を赤裸々に描いた小説として有名だ。読んだ方も多いだろう。小説で描かれた暴力は氷山の一角に過ぎないが、日本軍による組織的かつ無秩序な「南京大虐殺」のありさまを垣間見ることができる。
 旧陸軍病院を前身とする国府台病院(千葉県)に残る兵士の精神疾患のカルテには、発病の原因として「戦場の恐怖」「過酷な行軍」「上官の制裁」などがあげられ、中には「住民6人を殺してから夢に出てうなされる」という記述がある。日本兵の精神疾患の原因の一つに、中国・南京の人々に対する非人道的暴力の行使があると言える。
 『南京 抵抗と尊厳』(五月書房新社)を書いた阿瓏(アーロン)は、南京防衛戦に従事し上海戦で負傷した中国軍の将校だ。その中に、南京城が陥落し徐州へ撤退する林の中で、通信小隊長の厳龍(イェンロン)が日本兵8人の首吊り死体に遭遇する場面が描かれ、次のような文章が続く。
〈厳龍には絶え間なく落ちてくる大粒の水滴が、これら死体の目から流れ出る声なき涙のように思えた。
 「なぜなんだ?」
 日本兵の自殺が何を意味しているのか、彼は深く考えこまざるを得なかった。〉
 さまざまな解釈が可能だろうが、大陸北部、上海、南京と続いてきた激戦がひとまず終わりホッとしたところに、自らの兵士としての行為のあまりの酷さ・醜さに心が耐え切れなくなったと見ることができないだろうか。

頻発した強姦

 他方、皇軍によるすさまじい暴力の被害を受けた南京の人々は、その後の人生に大きな苦しみ・悲しみを背負った。松岡環『南京戦 切りさかれた受難者の魂~被害者120人の証言』(社会評論社)にはそうした声が満ちている。特に、至る所で頻発した強姦(ごうかん)事件の被害者は、その場で残虐に殺されることが多かったというが、身投げするなどの自死や衝撃の大きさによる衰弱死も見られる。また、日の丸や日本人がテレビに出てくると、当時を思い出し、体が硬直し恐怖がよみがえるという。
 「南京大虐殺記念館」の芦鵬(ルーペン)さん、通訳ガイドの戴国偉(タイグォウェイ)さんから教えていただいた中から2例を紹介しよう。
 賀小河(ハーシャオハー)さんは当時8歳。母親と一緒に防空壕に身を隠したが、日本軍により機関銃で掃射された。100人以上のうち生き残ったのはわずか12人。それ以来、ショックで話すことができなくなった。南京記念館の職員が会いに行っても、何もしゃべらず車椅子に座ってぼうぜんとしていた、という。5年前に亡くなった。
 張秀紅(チャンシウホン)さんは12歳。髭(ひげ)の日本兵が家に乱入し、「まだ子どもだ、許してくれ」と懇願する祖父に銃剣を向け、張さんは暴行された。目が覚めると、血が流れ出しベッドを真っ赤に染めていた。雨天になると痛み出し眠れない。「祖父の命が助かったことが心の慰めになっている」と語るが、血に染まったベッドでの凄惨(せいさん)な記憶は消えない。
 これらの例は沖縄戦とその後の米軍政支配とも共通するものだろう。二人によると、南京事件の戦争PTSDについて調査・研究は不十分、資料も極端に少なく、当事者の社会的ケアは十分でないという。

「幸存者」2世

 私たちは昨年、一昨年と南京を訪問し幸存者(中国では生存者を幸運にも生き残った者としてそう呼ぶ)2世の方から直接お話をうかがう機会を持った。そこで、日本軍の暴力による被害が世代を超えて現在まで続いていることを強く実感した。
 幸存者2世・曹玉莉(ツァオユーリー)さんの母親は当時6歳の少女。揚子江の葦原(あしはら)に隠れた。ちょっとでも声や音がしたら、日本兵は銃で撃ち、近いところなら銃剣で刺した。その時銃剣で刺され左足にヘビのような形の傷口が残った。太平門の近くの家に戻ってくると、家は放火され、食べ物はなくなっていた。近所の男たちは銃で撃たれたりこん棒で殴られたりして死んで死体が腐っていた。
 曹さんは語る。「以来、母は『日本』の二文字を聞くとカッとなる。毎日イライラして、精神状態が不安定。傷を受けたのは体の一部だが、終生、心の傷を背負ったままの人生ではなかったか。いつも口癖のように、『日本に行って南京の不幸な歴史を多くの日本人に語りたい、知ってもらいたい』と言っていた」
 幸存者2世・常小梅(ツァンシャオメイ)さんの父親は当時9歳の少年。家族と共に隠れていた南京城内の空き部屋に日本兵が現れ、母親の胸を突き刺し、赤ん坊の尻を銃剣で突き上げ放り投げた。当時11歳だった姉も刺された。少年は気絶した。母親は頭を垂れ、赤ん坊を抱いたままの姿で亡くなり、父親は銃弾を受け即死。生き残ったのは少年と姉の二人だけ。一人の女性が二人を引き取ったが、女性の家にも日本兵が現れ、女性と少年の姉を強姦した。
 常さんは語る。父の脳裏にはいつも日本兵に殺された光景があったと思う。まるで毒薬を吸ったかのように、突然人間性がおかしくなることがあった。「笑顔の父をほとんど見たことがない。親子の感覚は薄く、父の愛情を感じることの少ない人生だった。少年時代に受けた苦しみを引きずった長く苦しい人生の中に、私たち子どももいる。少しでよいから父の笑顔を見たかった。父から愛を受けたかった。そう考えると、私の人生も完全ではないと思う」
 戦場の暴力がトラウマを生む。戦場から離れたところで作戦を立案・実行する戦争指導者たちにとってトラウマは無縁である。だから、彼らはまた戦争をしようとする。戦争の暴力が生むトラウマについて認識を広め、反戦・非戦・不戦が当たり前の社会をつくりあげなければならない。

沖本祐司(南京・沖縄をむすぶ会事務局長)

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