今回のメルマガは坪井久行さんからの寄稿です。坪井さんには当会主催8月11日の戦争準備報告意見交換会で京都祝園弾薬庫について報告いただきました。戦前造られたこの「東洋一の弾薬庫」が現在進められる戦争準備の中でどう位置づけられるのか、歴史的経緯をふまえた内容に戦慄を覚えます。こうした弾薬庫が130ヶ所にわたり、その危険性が全国に関わるということをもっと理解し、発信していくことの重要性を感じました。ぜひお読みいただき、発信してください。よろしくお願いいたします。本稿は当日の模様を映像公開していますので、そちらをご参照の上お読みください。(坪井さんの報告は映像時間の1:12:17~1:22:16頃になります)
8.11沖縄連帯集会での祝園ネットからの発言
祝園弾薬庫は、国が真実を言わないので、謎に包まれている。そこで、明確な事実にもとづきながらも、想像力をたくましくしながら、その謎解きをしてみたい。
(1)祝園弾薬庫はなぜ建設されたのか?
●1939年祝園弾薬庫の前身の大阪府枚方町の禁野火薬庫が大爆発を起こし、終日、29回の爆発を繰り返し、半径2㎞に及び、死者94人、負傷者602人、家屋の全半壊821戸、被災世帯4425世帯。陸軍は、その代替え地として京都府川西村((1)の年表に現精華町)を選んだ。川西村は、宇治の火薬製造所や大阪の香里分工場に近く、しかも、人口が少なく、入り組んだ浸食台地で、万が一の事故が起きても、最小限の被害が抑えられるという非人間的な理由で選び、短時日のうちに、強制的に土地を買収し、朝鮮人や地元民、学徒を動員して2年間の突貫工事で完成させた。
●(1)の年表にあるように、1940年につくられた祝園弾薬庫は、面積470haで、それまでつくられたどの弾薬庫よりも面積が広く、陸軍が「東洋一の弾薬庫」と自慢したほどの巨大な弾薬庫だった。「東洋一」としたのは、日本で一番大きな弾薬庫であると同時に、当時、アジアでは他国を軍事力で侵略するような国はなかったため、アジアで最大の弾薬庫を意味し、アジア地域に弾薬を送り出す最悪な役割を果たしていた。
その軍事基地の行政面積に占める面積比は、1/6(約17%)であり、下の沖縄の面積比と比べてみると、沖縄の軍事基地の沖縄本島比19.3%に近く、まさに祝園弾薬庫のある精華町は「軍事基地のまち」といえる。
(2)戦時中の毒ガス兵器の行方は?
●これは、陸軍の祝園弾薬庫に関する秘密資料。当時、祝園弾薬庫には、毒ガス兵器が保管されており、戦局に応じてアジアに運び出され、使われていたもよう。当時でも、毒ガス兵器は残虐な兵器として、国際法で違反とされていた。そのため、敗戦時には連合国に没収されると、戦争違反罪に問われることを恐れて、終戦前後に、隠したとのこと。或る人の証言では、トラック10台を連ねて舞鶴に運び、舞鶴沖に投棄したとのことであるが、そんな終戦前後のドタバタした時に、そんな遠い所まで捨てにいくだろうかという、素朴な疑問。そこで、当時、弾薬庫の中で働いていた人に、当時の様子を聞いたところ、朝早く、トラックの運転手が、黒い箱(つまりブラックボックス)に何か超危険なものを入れて、「今からリンコウにほかしに行くんじゃあ」といったとのこと。その危険物をほかしに行ったという「リンコウ」とはどこかが、最大の謎。
そこで、この陸軍の秘密資料である「弾薬庫の図面」をご覧ください。マッチ箱のようにいっぱい散らばっているのが貯蔵庫。山をトンネル状に掘って、コンクリートで固め、上からかぶせてつくった貯蔵庫。中には、真ん中より少し上の方に「野積み弾薬地帯」と名付けられているように、ずさんな管理をしていた弾薬庫。一番左端に、「臨時構築物」と書かれているのに注目したい。簡略して読めば、「リンコウ」と読めることに気づいた。つまり、トラックの運転手が「リンコウにほかしに行く」といった「リンコウ」とは、この「臨時構築物」つまり、弾薬庫の左側の山林の中に、穴を掘ってその危険物、即ち毒ガス兵器を埋めたのではないか、と推理できるのである。その後、毒ガス兵器がどうなったのか、今では誰にもわからないのである。
(3)1945~60年の米軍管理の時代はどんな実態か?
●1950~53年に朝鮮戦争が行われ、祝園弾薬庫は米軍の戦争政策に利用された。弾薬庫から長蛇の列で弾薬が運び出されたとのこと。後年、極東米軍の秘密資料が解禁されたが、それによると、極東米軍は国内の有名な弾薬庫を「核兵器処分能力」のある基地として位置づけていたとのこと。その名は、池子、船岡、沖縄の牧港や嘉手納、立川、小倉、高蔵寺、横須賀、佐世保などとともに、『ホゾノ』(祝園)の名が挙げられていたという、驚くべき事実。
●今日、「核抑止力の強化」が、先日の米日の2プラス2で確約された情勢の下で、このことは特別に重要な意味があるのではないか。①祝園弾薬庫には、米軍管理時代には「核兵器処分能力」を持っており、今日、この「核兵器処分能力」を使う者が現れれば、現実化する恐れがあるということ②最近判明したのは、防衛省が「米軍との共同運用は現時点では計画はない」と表明しているが、つまり、「将来的には米軍との共同運用」で米軍が常駐する可能性があり、その場合には、核兵器をどう扱うかが憂慮される③今後の防衛計画では、ミサイル保管とシェルター建設をセットで行う計画であるが、シェルター建設が、核兵器や化学兵器や生物兵器などのミサイル攻撃への対応を考えている以上、他方では、わが国のミサイル自体も、そのような核・化学・生物兵器などの最悪攻撃力を備えざるをえなくなる、ということである。④さらにいえば、1960年の自衛隊移管時に締結された「確認書」の有効性が否定されようとしているが、その「確認書」のトップに書かれている「核兵器を持ち込まない」という確認さえも、否定されようとしていること。
このように考えた時、1945~60年当時に備えていた「核兵器処分能力」が今後、どのように生き返るのか、十分な警戒心で注目すべきである。
(4)なぜ今、祝園弾薬庫が真っ先にミサイル保管基地に選ばれたのか?
この地図を見たらわかるように、祝園弾薬庫は、本州の中央部に位置し、京都北部に米軍レーダー基地があり、また、東の滋賀県饗庭野には米日の共同演習場があり、さらに、祝園弾薬庫は西日本の弾薬を補給する役割があること。そういう意味では、本州の中枢機能をもっていること。さらにいえば、広島県呉の新しい弾薬庫が本州のミサイルを集約して、南方諸島に海上輸送する役割を果たすことになるとすれば、祝園弾薬庫は中間拠点の役割を果たすことになるのではないか。
(5)祝園弾薬庫と活断層の危険性は?
今、連日、南海トラフの危険性が取りざたされているが、大事なことは、東南海大地震だけでなく、それ以前に近畿の内陸性直下型大地震の発生が予想されることである。そういう意味では、祝園弾薬庫の地下には、生駒断層帯の活断層が通っており、そこに大型火薬庫が建設されれば、いざという場合には、大爆発や危険物の流出の危険性があることを指摘しておきたい。
(6)最近指定された「土地利用規制法」はどんな危険性があるか?
それは、祝園弾薬庫の周囲1km以内が「基地の機能阻害行為」の取り締まりが罰則付きで行われることになっているが、まさしく、思想表現の自由が奪われることになるだろう。
(7)その狙いは何か?
この京都府内の自衛隊基地がすべて「土地利用規制法」の対象になっていることから、その狙いは一目瞭然である。即ち、米軍のレーダー基地の管理と指示のもとで、自衛隊基地が相互に連携しているのであるが、それらをすべて住民の監視から遠ざけ、ミサイル防衛体制を構築することに狙いがあるのではないか。
(8)8.25祝園ネット夏の大学習会で、元自衛官小西誠さんが、米日の支配層の狙いと祝園弾薬庫の位置を語る
今多くの人たちが、元自衛官に真実をしらせてほしいと大きな期待と注目を集めている。祝園ネットは、京都南部と奈良、大阪、滋賀など近畿の人々を広範に結び付け、沖縄や全国の皆さんとも連携して、軍事基地化反対の狼煙を高く揚げたいと思っています。
坪井久行(京都・祝園ミサイル弾薬庫問題を考える住民ネットワーク運営委員)