今回のメルマガは川満彰さんからの寄稿です。先月、川満さんと、林博史さんの共著「沖縄県知事 島田叡と沖縄戦」が発刊されました。沖縄戦時の行政に関する資料や新聞を提示し、当時の県知事ら内務官僚の戦争責任を問い、史実を見つめる重要性を伝える内容となっています。本稿をぜひお読みください。
『沖縄県知事 島田叡と沖縄戦』(2024年 沖縄タイムス社)発刊に寄せて
沖縄戦時、県知事だった島田叡が賞賛され、いまでは小学校6年生の道徳の教科書まで取り上げるようになった。しかし、島田叡の人間性だけをクローズアップした評価では、沖縄戦の実相を歪めるだけでなく、現在起きている自衛隊配備問題の正当化へと繋がる。
地上戦が始まる前、島田知事は住民への北部疎開計画を急ピッチで進めると同時に、そのための食糧確保に乗り出した。しかし、北部疎開計画の実態は地上戦の足でまといとなる住民、特にお年寄りや病者、女性や子どもという選定された住民だけの疎開計画で、それ以外の「可動力のある者」(「沖縄新報」1945年2月11日付)は戦場へ送るために現地に留めおかれた。また食糧確保計画は、当初から沖縄本島の場合、3か月しか持たないと試算されていたにも関わらず、台湾からわずかな食糧を継ぎ足す程度の確保計画は、山中の住民に行き届くはずもなかった。多くの避難民は栄養失調や病気等で犠牲を強いられていった。
北部疎開計画を鳥瞰すると、疎開者らは棄民であり、残された青少年少女らを始めとした「可動力のある者」は「根こそぎ動員」の対象者だったのである。
いまの石垣島・与那国島への自衛隊配備問題を振り返ると、「台湾有事」に備えて、住民の九州疎開を政府や石垣市長・与那国町長などは本気で考えていることがマスメディア等を通してわかる。「戦争ありき」の疎開施策は、地上戦に備えるために第32軍司令官牛島満中将へ積極的に関与した島田知事の施策と何ら変わらない。
戦争の常套手段として、軍事基地は第一の攻撃目的地となることは今も昔もかわらない。万が一、その自衛隊基地が相手敵国から攻撃を受けたとしたら、政府や二人の首長は、相手敵国を非難するだろう。しかし、攻撃を始めた敵国の戦争責任は重いが、攻撃を誘導するかのような施策をとった政府や二人の首長の責任は最も重い。
『沖縄県知事 島田叡と沖縄戦』を手に取って頂き、いまの平和問題と照らし合わせてみては如何だろうか。ご一読願いたい。
川満彰(本書著者、沖縄戦研究者)
沖縄戦跡巡り参加して来ました。